他人の不幸がしんどい

具合が悪く、大学の医務室に行ったら友達が偏頭痛でめちゃくちゃ苦しんでいた。

 

彼女はベッドに横になっていて、カーテンがかかっているので姿は見えないが、太刀打ちできない心身へのダメージにうめいたりわめいたり、それでも全身逃げ場のない苦しさを味わい続けていた。

 

私は辛そうな人を見ると結構泣く。重い偏頭痛の経験はないが、たとえ自分が偏頭痛に苦しんでも泣くことはないだろう。でも人が偏頭痛で苦しむのを見て泣いた。

 

あーその症状全部私に乗り移ればいいのに、と思った。

他人の不幸が辛いのだ。

 

他人の感情や感覚は自分の経験の範囲で共感できる、が、実物を感じ取れない。

自分に起きたことなら自分で受け止めるが、他人のことは受け止めることができない。

他人の辛さを感じたり想像したりしても、受け止めて自身の中で消化する作業ができないので、涙になって溢れてくる。

 

自分自身も具合が悪く医務室にいることの要因が、先日知人に取られた態度にあまりにショックを受けてしまったことだ。私のことを尊敬してるとさえ言う人なので、それはショックだった。

知人に自分の率直な感情を語ったら、普通そんなこと思わないとか、そもそもおかしいとか、そんなようなことを言われて感情・感覚そのものを否定されてしまった。

しかしその感情や感覚はここにあるじゃないか、どんなに人と違う感覚を持っていようと、ここに自然と湧き出てしまうじゃないか。

だから何よりも尊重するのだ。たとえ理解できない相手や嫌いな相手でも、そこにある心の動きは否定のしようがない。

 

それっぽっちのことで〜というようなことで苦しむ人、辛くなる人、もしくは喜ぶ人がいても、具体的事実だけでなく、どう感じているかを尊重することは譲れない。

 私は人が嫌な思いをするのが嫌いで、人が良い思いをするのが好きだ。

 

変顔大会アット新宿

新宿でこんばんは、と声をかけられた

 

どこから来たんですか、私はこれからバイトです なんて言葉を交わして、どういうものが好きなの?と聞かれた。

 

色々ですけど、美しいものが好きなので美術だったり、あとマスクが実は好きです!今持ってるそういう実用のマスクじゃないですよ

 

その人は醜形恐怖症だそうで、仮面をつける感覚がわかると言った。

私は醜形恐怖症に属するかも知れないけど、整形しようとも、顔を隠そうとも思わない

仮面をつけるのは顔を隠す行為ではなく一言で言えば表現なんだ。

普段つけてないけどね

 

醜形恐怖症のその人なりの治療が、コンプレックスを越えていくために、敢えて崩した顔をしたり、敢えてみっともない行動を取ってみることだって

 

お互いに互いの手を借りて顔をぐちゃぐちゃにした

その時の私は結構笑ってた

そういえばもともと全力で変顔するの好きだったな

 

互いに触れて、顔で遊んで、すごい高揚感だった。私の顔の方がすごいぞ!という意地でじゃんじゃん変顔を作ってみせた。空間を共有しているという一体感があり、そこだけお祭りのようだった。

 

でもバイトがあるので別れないといけない、この神秘的な心地のままバイトに直行したくないから早めに別れたい、また変顔大会をしましょうと別れた。

 

彼は波動を感じた人に声をかけるらしい。私もちょうど、同じ波動の人に街で声をかけようかな〜と近頃思ってたけど、歩いている時に他人を意識しないし、出会い頭にそれをわかる自信はまだそこまでない。

でも数分とか数時間とか近くにいてみると、感覚に触れ合うことができたり、共鳴できたりすることを感じる人もいる。その深さはまちまちだが、なんて気持ち良いんだ。

 

その人が私に声をかけた感覚はわかるな、他でもない今日話したかった人だな、とその後思った。

大田区のふかえり

私は美しいものが好き。

まあだから美術なんか好きだけど、それも?って思われるようなものも美しいと感じる。例えば食べ物にグッと来ることがあるからとりまブログアイコンをウィンナにしてみた。

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美しいと思う感覚、好きと思う感覚を信じてきた結果、好きなものを好きでいる自分が好きでいるように。

その過程には人一倍の辛い経験もあった。泣いて悶々として考えた。傷ついた自分が一番信じる人間は好きなものをまっすぐ好きな自分だ。

 

美しさとか好きだとか良いとか感じてきて考えてきて今、正しさ、共感、尊重を常に意識する自分になっている。

 

その自分のことを書きます。