持てる者と持たざる者。何を?

だいぶ前の話 年末に健康保険証と運転免許証とキャッシュカードを紛失したので年明け時間があるときに再発行にお出かけに行きました

 

 

まずキャッシュカードを再発行に銀行へ

 

パスポートを身分証明書として持って行ったらなんと二週間前に期限切れ

 

代わりの身分証として年金手帳を家に取りに帰っていたら銀行窓口営業終了時刻15:00

 

それなら健康保険証を再発行しようと区役所に連絡したら父親の扶養なので父親が会社に申請しなければならないと言われた(知らなかった)

 

仕方ないので免許証の再発行に行こうと問い合わせたら住民票の写しがないとダメと言われて区役所で発行してもらっていたら免許センターの受付時間16:00を過ぎた

 

 

ということで結局何も目当てのものはこの日手に入らなかったけど、パスポートが失効していることが判明して良かったし、不条理感が面白くなっちゃってとても楽しかったるんるん

 

 

まずなぜこんなに紛失してるかって、財布を盗まれちゃったからだ。派遣会社に登録して、年末年始に短期間アルバイトをしたら一緒に働いていた人に財布を盗まれた。

 

母親から最近プレゼントしてもらったお財布をなくしたことはショックだったものの、たまたまいつもより多く入っていた現金が全部なくなってしまったことに関しては動揺もしなかった。

 

育ってきた家庭自体は比較的お金がある。それに、よく可愛いと言われる。基準を設けて数値化できるとしたら同世代の中で社会的に優位な方になる。それに対して盗んだ人は恵まれていないんじゃないかな、だとすればむしろちょうどいいと思った。

 

母親にパイロットや医者や弁護士のようなエリートの金持ちと結婚しろとしょっちゅう言われるが、私は「持てる者」であることに価値を感じない。

徹底的にひとりぼっち

三日四日前、風邪のせいで大学の医務室で寝ていて、あぁこの時間はなんでもないな寂しいなと思い、よし今夜は人に会わないと決めた。この頃人に会いすぎだ

 

もともと一人が好きで、中学から高校にかけて一人で遊びまくっていた時期もあった。ただ一人で美術館に行ったり服を見に行ったりラーメンを食べに行ったりドンキに行ったりその他寄り道をしたりするんだ

 

 

小学校、中学、高校の生徒は、だいたいある程度行動の基準となるグループみたいなのがあるだろう。私の場合はその単位が自分一人だった

 

他人を拒否しているわけではない

 

私が関心を持っているのは関係性(友達や恋人という個別のもの, 年齢や職業という社会的なもの)ではなく、もっと個別の人間だ

何とも結合してないから出会った人とその都度結合できますよカモンという裸な個でありたい

関心のあるイベントにアウェーな状態で参加して~とか、なんなら一人で道を歩いていて~という時に実際面白い出会いをしている

 

 

しかし、そのスタンスは変わらないものの結果的にこの頃は会う人が増え、一人でふらふらふらふらしている時間がなくなっていた

他人を知って自分がわかったり、自分を追及して他人に共感することは最高に楽しい。とはいえ結合ばかり起こすと一人で泳いでいる時の世界が見えない

誰かといるとそれだけで純粋な自分ではいられない。やっぱり自分は自分を信じていて自分が好きで、本来は一人でいる時が一番強い。自分一人になることができていなかった寂しさを癒すのは他でもない自分自身だ

 

医務室を出て用事を済ませて大学を出た私は具合が万全ではなかったが、居酒屋チェーン金の蔵に行った。汚くて狭い酒場が大好きだけど、アウェーを感じるならチェーン居酒屋でしょ

のんびり一人で好きに飲み食いして、お通しの枝豆を手持ちのライターで炙ってよだれ鶏の余ったタレにつける即席アイディアお料理をしていたら箸の先が熱で少し変形して店員さんにごめんなさいしましたとさ

 

12月半ば頃からなんとなくダメだったけど、整ってきた

 

デンマークの制度があってもデンマークにはならない

友人がデンマークの教育を学びにツアーに参加したので、先々月その報告会に行った。

 

北欧の教育は評判が良い。デンマークの教育のデンマークの教育たる所以を彼女たちは考察した。

デンマークの人は子供の頃から俯瞰的に自分を位置付けて理解しているということだった。

というのも、日本でいう幼稚園に当たる施設では、子供どうしの喧嘩が起きると、先生が「相手はなんで嫌がったと思う?」と問う。こんな教え方がよくあるみたいな話だったと思う。

また、ゴミは日本のように収集車がくる訳ではなくて、自ら所定の場所まで運ばないとならず、結構めんどくさいにもかかわらず、ちゃんと個々で運ばれて処理されているという。100年後のデンマークの土にちゃんと還すみたいな考え方があるそうだ。

 

俯瞰とは言っても自分を他人から見た視点ということだろう。自身を客体化してるわけじゃない。私が思う俯瞰は、直感的な自分の上にもう1つ分析的な自分を設定するっちゅうことだった。あくまでこれは自分本位だが、この話を聞く限りではデンマークの人たちは他人本位だ。

それって結局、神の存在によるところも大きいんじゃないかと思った。特定の神を信じる人は、その神からの視点を意識してるだろう。

イスラム教徒は一日に5回礼拝を行う。断食もする。それはその行いを神が見ているから

プロテスタントが国教とはいえ、国民の意識にどれほど根付いてるかは実際推し量る由も無いが、日本人にない視点が国民にあるとすれば、教育制度だけの問題ではないだろう

 

夢をみて、感じ取れさえしなかった寂しさを感じきった経験

 内容を覚えていようといまいと、夢から目覚めると、思考が整理されていたり、何かを強く感受していたりする感覚は明らかにここのところよくある。

 

四年前、高校一年の時にみた夢は寂しさを詰め込んだような夢だった。

寝起きはよくわからなかったが、日中その夢が気になって悶々として、イメージを何度も呼び起こしながら考えて、次の夜ベッドで泣いた。

 

この一日の出来事を経て、私の私自身の捉え方や寄り添い方が変わった。

その夢は自分が感じてきた寂しさをこれでもかと映していた。

保育園の頃からいじめを受け、小学校では変人と言われないように不自然に装って、中学生の頃には親から私が苦しむよう仕向けられてしまう。

今まで信じられる人間がおらず、孤独感を無意識に蓄積していたようだ。しかしそれでは自分を信じればいいのでは?と、この日から自らの感覚を重んじるようになった。そして今に至っている。

意識することさえなかった寂しさのような感情を一気に表し、一気に感じきって、一気に受け入れた、衝撃的な体験だった。その日はものすごく寂しく、またとても晴れやかだった。

子供向けの画集やシュールなアニメなど、保育園児以下の頃に好きだったものを、これが10年くらい忘れていた私の感覚だと急に思い出した。

あぁ私はこれらの状況からこんな風に寂しかったんだと捉えたことから、率直な感情に敏感になりながらも、それを感じている自分を客体的に認識する俯瞰の能力をこれを機に得て、初めて自分自身が一人の人間として浮かび上がった。これから自分を信じよう、好きなものを好きでいることは美しいことで、そんな自分が大好きだとその時思った。自身を好きとか嫌いという観念すらそれまでなかった。

そして強く心に留めている、他人への尊重の意識もこの時から始まった。寂しいだけでなく、傷ついてきた。親に尊重されなかった。これからはそこから守られるためにも自分が自分に寄り添おう。そして同時に人を傷つけず、歩み寄ろう。その行為こそが自身への尊重なのだ。

自分の中、自分の外、画一的世界

 

マルセル・デュシャンの展示を見に行った。

 

彼は前衛芸術家として知られる。20世紀美術の超有名人。

「泉」は知っている人が多い。

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それまでよく知らなかったが、私的にはデュシャンはこんな

 

物事は、工業製品は、そこにあるだけで、「そこにある」「見られる」「存在する」という役割をになってしまう。

彼は物と人とのそんな関係性に目を向け遊んだのだ。彼が美術館に作った部屋は中にマネキンが横たわっていて、客が覗き見をするようになっている。覗く人、覗かれる物という関係がここにある。

トイレの便器など、大量生産される工業製品を展示することが彼のスタイルだが、彼はその遊びを工業製品以外のあらゆる作品にももたらしていた。

彼はおぼっちゃまだ。あらゆる思想や芸術を学び、技法として試していたが、それを経て彼の感じる本質に行き着いた。周囲を観察し、自らを追及すると、自分・他人・物・それらとそれらの接続 などが浮かび上がって見えてくる。

 

共感した。

 

電車に乗ると、シートやつり革や床があって 今周りにあるのは机とスクリーンと窓ガラスとタオルとあとあとあと

 

私はこれらを見ていることをたまに意識する。そして私は違和感を抱く。

私は色々な観念がぐちゃぐちゃになった夢を見る。ビジュアルも音も一般には通じない世界だが、自分の率直な感覚そのものが広がっている。夢から覚めた現実は、多くの人に通じるように、画一化されており、そのために言語や数学や道具が使われている。

私のためにではなく、社会や社会を構成して生きる人間のために存在しているそれらに対してはモヤモヤした違和感がある、それを認識する面白さもある・・

当然、主に自分の経験から自分の感覚は出来上がるが、自分の感覚と、目の前に広がる世界には乖離があって、それを絶望のように感じることもある。

 

マルセル・デュシャンは結果的に注目され、影響を与える人物になったが、社会の枠組みの中で、孤独を感じていたんではないだろうか。

そして今も孤独だ。

 

房総で制服でチョベリグにダンス

土日、房総の廃校で、ガチ文化祭なる企画に参加してきた。

 

バンド演奏したり射的やったりメイド喫茶やったり、みんな大学生以上だけど制服やジャージ着ちゃって高校生っぽい、その上自由、高校だけど高校じゃない、そもそもこの廃校は小学校だからサイズ感が違う、寝袋で前泊するし、ドローンが飛んでるし、クラスメイト知らないし............

 

そんな中、そもそも概要もわからんがなと思いつつ参加することにした私は理科室を与えられ、装飾をしてその部屋で踊る予定でいた。

体調が万全じゃなくてたくさん寝たので時間がなく、その場しのぎ的ダンボール工作が転がり、

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落書きが施されるなど

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そのほかにも私の落書きの立体が転がっていた

 

校内放送で案内した時間に部屋に集まってもらい、自由に音楽をかけてもらってそれに合わせて即興でグネピョコグネピョコ踊る。色々な曲が流れた

 

その場の音楽のイメージで身体を動かすだけ、と言っても激しかったしたぶん気持ち悪くできたしウケていた。曲が変われば動きが変わる。ダンス?演技?なんだろう。気持ちよかった。呼吸が美味しかった

 

夕方に体育館に集合して後夜祭が始まり、幅広いパフォーマンスがあった。その中でもヲタ芸

アイドルがあまりに好きで、ヲタ芸があまりに好きで、パフォーマーになってしまった彼らによるオタ芸が始まった瞬間から感極まった。とめどなく感極まった。

 

そういえば小学生の頃ヲタ芸の動きを好きで真似してたな。ダンスの授業が恐らく最下位の私でもこれは好きだった。

直感的な動きなのかもしれない。彼らとアイドルの趣味が合うか合わないかはどうであれ、振りをコピーしているというよりも、その場にある身体を費やしている感じかな

動きは伝わるんだなぁ 言葉で伝わらず苦労する、では絵や写真ではどうなのか?いや、ダンス(動き)もあるよね

と思った。 

 

彼らに感謝を伝え、三時間かけて家に帰った

 

 

ナンパにこだわるゾ

この間Facebookにこう書いた↓↓

 

ナンパされると相手に軽い暴言を吐く人や舌打ちをする人がいる
   
習慣的にナンパをするプロナンパ師はそれに慣れてるだろう
とはいえそもそもナンパは純粋な悪意でない
悪意でないものに悪意を向けることはないと思う
  
渋谷で私に声をかけてきた人がナンパスクールの講師と言うので、なんでそんなにナンパするんですかと聞いたら「女の子を楽しませる、人を楽しませることが目的」と言っていた
 
どこまで本当かわからないけど、私が好きなマスクを被って渋谷を一緒に散歩することをその場でお願いしたら、実際要望通りに一緒に歩き回ったり動画を撮ったりしてくれた
(素顔より仮面で話してる時間の方が長かったです) 

                  」

悪意を向けないどころか、相手を楽しませたらベターだと思っている

話しかけてきた人に「面白いね!」と言われることもあって、ただ単に私が楽しいから

リアルでの会話はまあ好きだけど、LINEとかは苦手なので、楽しく話しつつ連絡先交換を断るというベストな状態を毎回目指している

 

ナンパと言ったけど別になんでもいい、悪意のないところに悪意を向けないだけ

ナンパという言葉の軽い雰囲気でだけで厳しい目を向ける人がいるから敢えてそう書いた

 

問題はすれ違いざまに言葉をかける人だ!

最近だったら

サラリーマンからの「素敵なスカートだね」と

道路に座り込んで飲んでるおじいちゃん達からの「服が透けてるねぇ、いいねぇ」

瞬間的すぎて何も返せなかったことがなんかツマンネという敗北感だった